昭和54年01月30日 朝の御理解
御理解 第37節
「生きておる間は修行中じゃ。ちょうど、学者が年をとっても眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞ。」
昨日は散髪屋さんが来てくれました。もうこの人は早刈りの名人で、そりゃあっという間に。こんな早い人は、沢山床屋さんに行きましたけれどもない。も実に早刈りの名人です。昨日つんでもらいながら、大体床屋さんは、何年位修行したら一人前ですかと言うたら、少なくとも、弟子に五年は行かなければいけません。そして自分が店を出そうという自信が出来るまでには、十年かかります。と言うんですね。
私はそれを聞きましてね、こりゃお道の信心もね、やはり本気で打ち込んで、その事に専念して十年したら、ね、我が心をまつれと仰るが、やっぱそういう意味の事だと思うんです。そしてそれは、もうそれでよいと言うのじゃなくて、そしてもう結局、まだ一ぺんでもこれはようつんだ。とか、これはよう出来たという事がなかと言う。だからもう一生がやっぱ修行だと言う様な意味の事を床屋さんがそう言うです。だからこれは床屋さんだけの事じゃない、何だって同じじゃろうけれども。
いうならば。この世あの世を通して、いよいよ人間が幸せになろう。なれれるという事のための稽古ですから、これはやっぱ本気で取り組まなければいけない。も。その事に専念する。ね。いうなら、家業を止めてこうと言うのでなくて、家業の中にもう、信心がね。いうなら信心の中に家業が生々として、日々繰り返される様な信心をさせて頂いて、初めて十年経ったら、我が心がまつれるようになるのじゃないだろうか。まぁ祀れる様になったからと言うて切りがない。生神金光大神を目指すのですから。
もう亡くなられたでしょうね。あの世界の喜劇王と言われた、チャップリンという人があります。山高帽にスッテキを持って、あのダブダブのズボンをはいて、ね。破れたクツをはいて、あれがチャップリンスタイルです。有名になりますと、もどこの国の隅からでもです、あの帽子とステッキとクツですかね。これはちょっとマンガふうに書いて出したら、も必ずチャップリンの所に届いたという事ですからね。どこの国の何々と書かなくても。ね。という位にいうならば有名でありました。ね。
私共、合楽で信心させて頂く者がです。何をいよいよ身につけさせて頂いたらよいだろうか。何か一つ欠けてもいかないのです。まず、信心が有難いものになり勿体ないものになり、それこそ楽しいものになり、それこそ愉快にまでならせて頂けれると、まあ毎日のようにこの事を言うておりますけれども、その事がその通りに頂けるようになった時が、私は合楽の信心を頂いた時であり、いうなら、床屋さんで言うならば五年の修行をして、また五年修行をしてね。
一通り覚えて、そしてまた五年を修行してどうやら、いうなら店を持てれる自信が出来る時じゃないだろうかとこう思う。もうこれを育てていきさえすればよい。というところまで、一つおかげを頂きたい。何十年経ってもね、信心の有難さがわからなかったら、私はもうそれはダメだと思うですね。只あの御信心を頂いて、あの時あげなおかげを頂いたというだけにとまってしまう信心じゃつまらん。
そこで例えば一生が修行じゃ。とか学者が眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞい。と言われるように、も限りなく信心の徳を積んで行く事がもう、楽しうて有難うしてという事にならなければならん。為にはまず五年間ね。そこのところを本気で専念せにゃ。だから合楽理念をマスタ-する、分った。という事ならば、頭のよい人ならばもう、その、ほう成程と合点がすぐ行くでしょう。ね。
床屋さんでもこんなふうにつまな、あんなふうにつまなと口で言うだけでもの事であったら、すぐ覚えられたけれども、実際一人一人の頭をつんでですね、そして自分が満足の行く様な、そして自分が満足のいきような、一通りの事を覚えるだけでもです、なら五年間かかるという。そして今度それを、いうなら修練する。いうなら店を持たれるのを、自信がついたと、まぁのようなものが出来るまでには、十年かかるという。初めてわれながら、一本立が出来る。ね。
初めて我ながら、自分の心が祀れれるようになる。もうそれから先は限りがない。そこでです、いうなら、何をもって合楽の信心がです、ね、金光教の信心と言うてもいいですけど、まぁ合楽で稽古しとる皆さんの場合は、合楽で何を、いうならば大事にしなければならないかというと、結局、成行をいよいよ徹して尊ばしてもらい、成り行きを大切にさせて頂くことだと思うのです。もうこの中には、土の信心も水の信心も入ってこなければ、出来るこっちゃありません。ね。
そこから生みなされてくるところの、いうならばおかげ。そこに勿体ない事じゃあるなあと思う。有り難い事だなあというふうに思う。ね。成行を大切にする、成行を尊ぶという事の中身からです、ね。それが五年、その気で稽古さしてもらい、そして様々な、いうならその信心が様々に、応用問題にも頂けるようにならせて頂いて、私初めて我が心がまつれれるような信心の喜び、信心。お道の信心がこんなにも尊い、有り難いもんだと、分らせて頂くと思うです。ね。
そういう信心を自分の、いうなら生活の上にも。ね。その生き方の上に、そういうものが現れてくる。ね。そこに合楽の信者はちがうと言った様なね、ものが生まれてくるんじゃないか。又それには間違いない日勝り、月勝り、年勝りのおかげも伴うてくる事に間違いない。しかもそれがおかげに留まらず、代勝りのおかげを頂くための信心にもつながっていく。もうその辺になる時に、いうなら学者が眼鏡をかけて、いうなら年を取っても本を読むようなものであろうぞい。という事になってくると思うんです。
これだけ体得したから、もうよか。と言った様な事は絶対あってよかろうはずがない。不思議に信心が巧者になって、さぁ何処どこ教会の何々さん、さぁあそこにも話しに来てくれ、ここにも話しに来てくれという位になりますとね、不思議に日参教聴を怠るようになるですね。ですからもう、えらいおかげ頂きよるけども、その人が亡くなられると、代勝りのおかげに絶対つながらないです。
もうこれだけ、例えば合楽なら合楽で、これだけの合楽のものを体得したから、もう大丈夫というふうに腰かけるんじゃないでしょうかね。甘木なら甘木で稽古させて頂いた有名の信者さんがです、全国を股にかけてお話しに回る程しに、やはり私のおかげを見てくれと言う様に、おかげを見てもろうてお話しをするから、あちらこちらからいうなら声がかかる程しの信者にお取立て頂くけれども、それが代勝りにつながらないというのはです、もこれだけこれを体得したから。
ここでいうなら、合楽理念を体得したから、もうどこででも話せれるし、またおかげを受けておる事実を見本にして話すなら、誰でも魅力を感ずるけれども、それではです、いうならば、おかげを頂いたおかげの信心にとどまってしまう。ですから、とにかく学者が眼鏡をかけて、いうなら年をとっても本を読むようなものであろうぞい。というところはもう学問がおもしろいだけではない。
学徳が身についてくることが有り難いのである、楽しいのであるという信心にならなければ、今日の御理解の、いうならば私は芯というか、ミソというならばここのね、本を読むようなものであろうぞいと。それは年を取ってもと言う所までの信心が体得するというか、精進するというか、求道の心というものを忘れなかったら有り難い。またそうあってくれという事がね。
一生が修行じゃと仰ったのじゃないでしょうか。ね。合楽理念をマスタ-すりゃもう参らんでもいい、もう教えは頂かんでもいいと言う様な事に、なりかねませんからね。そういうところをしっかり踏んまえて、そしていよいよギリギリですね、いうならば今、合楽で言われておる成行を大切にする事の内容がです、いよいよ天の心であり地の心であり、日月の心でありと、水の心であり土の心であり。とね。
昨日、伊万里の吉富さんから電話がかかってきて、私は今日は、もうびっくりしましたと。どういう事ですかと言ったら、家内がお父さんこれを読んでごらんと言うて、ある本を見せた。そしたら合楽の親先生がね、土の心になれとこう言われるが、も土全体がいうなら土から出て土に帰る。ということはもうこの土の全部が人間の身体と言うてもよい。ち。何億年の間に、どれだけも人間が亡くなってきたか。それがみんな土化しておるのだからね。あのうもう土は人間の身体と同じなんだ。と。
その本に書いてあったげな。だからお父さん、土の信心ちはなぜ大事にしなければならないか。という事はこういう事ですよと言うて、家内から教えてもらいました。と言うて電話がかかった。ね。その土の信心に徹する。土に始まって土に終わる。そんなら、その道、とてもやはり、いよいよ土になる事の信心修行でなからなきゃならない。ね。いうなら、成行を大切にするという事は、そういうすべてのものが、その中に入ってくる。いわば、大切にするだけじゃない。
それを尊ばせて頂くようにならせて頂く。そこに我が心が拝めれるようにもなり、おかげにもつながり、お徳にもつながっていくという信心がそこにある。ね。一生が修行だというわけ。又はそれは学者が年を取ってでも眼鏡をかけてでも、本を読みたがる。それはもう、学問の徳が身についていくという事が有難いのであり、楽しいのである。あっこんな年取って、本を読まにゃならんと言う様なものが、さらさたない。
どうも金光教の信心の中にはね、今申しましたように、そりゃもうすばらしいおかげを受けて、それこそ、甘木の先生なら、甘木の先生の言わっしゃるような事を言うて、人にも感動させるようなおかげを頂いてもです、ね、それが後に続かなかったらいけんでしょうが。ね。不思議にもう、いわゆる信心の精進の方。いわゆるここで言うならば、日参教聴心行家業の行が出来んようになるからです。ね。その事が有難いものになり、楽しいものになるというね。
そのために、やはり体の丈夫のおかげも頂かなきゃならない。家庭円満のおかげも頂かなければならない。そこにね、家繁昌子孫繁昌が約束される。その上にお役に立ちたいという、神の手足にもならせて頂こうという御用精神。そういうものが足ろうていく。ね。だから、そういう基礎を作るためには、まず五年間みっちりと、いうならば合楽理念の勉強をする。
それをいよいよ、実際に応用が出来るというものは、また五年かかる、十年かかる。ね。それで完璧という事ではない。も。それから先は楽しうなって、有難うなって愉快になって。いうなら天地のリズムが聞こえてくるのですから、リズムに乗って動かなければおられないという程しの信心を頂けた時に、いうなら、この御理解三十七節が生々としてくるのじゃないでしょうかね。
どうぞ
今日の御理解の芯はね、私は今日御心眼に『チャップリンが帽子をぬいでおる所を頂いた』だからもう、これではチャップリンスタイルじゃないわけですよ。ね。例えばなら○○教会の○○さんが、あれ程しのおかげを頂いておられたけれども、それが二代に続かない。繁昌が二代に続かない。とするならね、帽子をとっとったからですよ。ね。だからもうその、いうなら合楽スタイルというか、も、どれいっちょ欠いでもいかん。
だから難しかじゃなく、もうリズム。調子が出てくるんですから、それに乗らなきゃおられないと言う所にまで、信心が進まなきゃいけないという事なんですよね。チャップリンがステッキをもたなかったら、もうチャップリンスタイルじゃない訳なんですからね。もう本当にこの辺の所を一つ、あの床屋さんですらそうなのですから、ましてや信心において親なんです。
どうぞ。